珍しくまじめな話。
3.11の悲劇からもうすぐ7年が経った。いや、経ってしまったと言う方がが正しいだろうか。
私の祖父母は宮城県仙台市に住んでいた。私は幼いころから父の実家がある関西に暮らしている。
つまり母方の祖父母である。
3.11のあの日、私は中学3年生。中学校の卒業式だった。旧友との別れを惜しむ余韻が残る。
その日は高校入試前日でもあったので、当時仲の良かった*1友人宅で一緒に勉強をしていた。
だらだらと勉強をしていたある時、部屋のカーテンが揺れる。窓が開いていないのに。
僕も彼も体感的に地震であることに気づいたが、とても不思議な揺れだったのを覚えている。グラグラっというより、グーラーーっという感じ。
しばらくすると、1階から彼のお母さんが上がってくる。
「(本名)君のご家族、仙台に住んでるやんね?」
そんなことを突然言われ、呆気にとられた。
「テレビつけて!」
とりあえずテレビをつける。嫌な予感は的中した。
この世とは思えないような光景が液晶画面いっぱいに映し出されている。
右上のテロップを見ると「宮城県」という文字が。
「これはまずい」
僕も祖父母も携帯を持っていなかったので急いで母がいる自宅へ帰った。
家に着くころにはコンビナートが大炎上していた。
母は軽いパニック状態。電話は繋がらないのでただ無事を祈るだけだった。
過去にも宮城県内陸地震など、それなりに大きな地震を乗り越えていたのできっと大丈夫、と信じて。
テレビはどのチャンネルを見てもヘリからの映像ばかりで、その映像は、祖父母が住む中野小学校のエリアを映していた。
学校の屋上からヘリで救出されている映像が流れていて、「どうか、その中にいてくれ」そう願った。
※ぜひ中野小学校跡へ足を運んでほしい
数日後、何とか従弟家族の方に連絡がついた。従弟家族は無事だった。
叔父さん曰く、祖父母は法要のため、車で親戚の家へ出かけていたようだ。
揺れの直後、祖父母はすぐに家に戻ったそうだ。
それがよくなかった。
安否はまだわからない。
そんな状況が半年続いた。
ずーーーーーっと行方不明のままなので、祖父母は災害死と認定された。
行方不明のまま、葬儀の準備が進む。
「車移動だしケータイも電話帳もないから連絡がつかないだけでどこかでひっそり生きているのではないか」
高校生になった僕はまだ受け入れられないし、納得できない。
中3の夏休みに遊びに行ったのに、
ビニールプールで遊んだ。シャボン玉で遊んだ。トンボやバッタを捕まえたり、おじいちゃんが趣味で栽培していたトマトも収穫した。ヤクルト配達のおばちゃんもいた。彼女は無事なのだろうか。今もわからない。
あの家はもうない。
その事実を受け入れたのは、一年後に仙台を訪れた時だった。本当に何もなくなっていた。
と同時に津波までの時間差を考慮すれば生存は絶望的だと確信した瞬間でもあった。
葬儀の一週間前だっただろうか。直前になって祖母が見つかった。
祖母の骨が。
やっと見つかったと同時に、母は遺伝子照合のため再度仙台へ。
骨とは言っても足の骨の一部だけだったことが津波の威力を物語っている。
祖父の方は行方不明のまま、二人同時に葬儀が執り行われる。こんな経験初めてだ。
生活が落ち着いた地元の知り合いや親戚、関係者が大勢集まった。僕は孫として参列。
めちゃくちゃ泣いた。恥ずかしいから親の前で泣かないようにしていたのに咽るほど泣いた。
今もこの文を書きながら目が潤んでる。
祖父は震災から4年経った2015年に見つかった。またも足の骨のほんの一部だ。
しかも見つかった場所がごみ処理施設だったから驚きだ。危うく一生見つからなくなるところだった。
今は仙台の墓地に眠っている。
昨年には京都の大谷本廟に分骨され(震災で亡くなられた方共同)、関西でも手を合わせられるようになった。
今も昔も、そしてこれからも。毎年仙台へ足を運ぶつもりだ。そのたびに仙台駅周辺の発展には驚かされる。
「もう7年経ったからいいじゃないか」「いつまで震災震災言うてんねん」そんな声が時々見受けられる。
祖父母を亡くした身としては3月11日は家族の命日でもある。
大切なことは、年に1度でいいから思い出してあげること。
ずっと死を考えてたら生きていけないからね。
この3月11日は毎年やってくるが、ちょうどブログを始めたタイミングなので覚えていることは文字として書き残したつもりだ。
自然災害なんて人間にはどうしようもない。南海トラフ地震や、首都直下地震などはいつ起きてもおかしくないと思っている。
いざというとき、何を残して、何を成すべきか考えさせられる日でもある。
祖父母へ
震災当時、15歳の中学3年生だった私は、今22歳。今年から東京で社会人として新たなスタートを切ります。
私は成長期に、おじいちゃんおばあちゃんが送ってくれたお米やお餅をたくさん食べたから大病もせず成長できました(ケガはしたけど)。
仙台空港で手を振って別れたあの日が最後。こんなことになるなんて。
私がいつ死んでも、葬儀場を満員御礼にできるように、できることはやって、精一杯生きる。
時々手を合わせに行くね。
*1:過去形である理由は、その友人が亡くなってしまったため